エンジニア採用から営業へ。社会人1年目でトップセールスに
田代
1995年、デジタルテクノロジー社で社会人人生をスタートされています。エンジニア採用にもかかわらず、営業から始まったそうですね。当時、葛藤はありましたか。
山﨑氏
特段、葛藤はありませんでした。
もともとはエンジニアとして採用されており、同期は9人いました。営業が3人、エンジニアが4人、バックオフィスが2人という構成です。入社前の懇親会で、私の両隣に会長と社長が座り、「君は営業の方が活躍すると思う」とずっと言われました。
私は「いやいや、エンジニアとして入るつもりです」と話していたのですが、懇親会の2時間、その話がずっと続きました。懇親会の終盤で「そう言われている時に決断した方がいいよ」と言われて、「そこまで言うのだから、やってみようかな」と思い、最終的に営業としてスタートすることを受け入れました。
実際、入社後、1年目から営業成績はトップクラスでしたから、結果的に会社の見立ては間違っていなかったのだと思います。
田代
今なら、エンジニアと営業のどちらを選びますか。
山﨑氏
どちらを選ぶというものでもないと思います。その時の状況でエンジニアがいいと思うかもしれないし、営業がいいと思うかもしれない。どちらもできた方がいいと思いますね。
So-netでインフラを作り直し、データセンタービジネスに関心を持つ
田代
その後、アスキー、So-netを経て、オン・ザ・エッヂ(後のライブドア)に入られています。入社のきっかけは何だったのでしょうか。
山﨑氏
So-netでは、サーバーエンジニアのリーダーのような仕事をしていました。入社のタイミングは、So-netの会員数がちょうど100万人に達した時でしたが、システムはまだ拡張性や耐障害性が不十分でした。それを1000万人規模でも耐えられるように、約2年かけて全面的に作り直しました。
その後もしばらくSo-netにいましたが、作業が一段落すると、新しいことに挑戦したいと思うようになりました。当時、興味を持ったのがデータセンタービジネスです。データセンター自体はありましたが、他社向けにサービスを提供する例はまだ少なく、各企業が自前で設備を持つのが一般的でした。

「これは面白い事業になる」と思い、So-netでも提案しました。ただ、So-netは個人向けプロバイダーで法人向け事業は別会社が担っていましたので、本格的に取り組むことはできませんでした。
そんな頃に参加していたのが、「リングサーバープロジェクト(Ring Server Project)」という技術者同士の交流会です。国内の主要プロバイダーの技術者が定期的に集まって情報交換をしていました。
その場に参加していたオン・ザ・エッヂのCTOに「データセンター事業をやりたいけれど、今の会社では難しい」と話したところ、「ぜひ来てほしい」と声を掛けていただきました。
ちょうどオン・ザ・エッヂの上場前後で、データセンター事業を立ち上げたタイミングだったんです。
田代
入社後はいかがでしたか。
山﨑氏
データセンター事業を任されたので、そこを集中的に見ました。ただ、So-net以上にインフラの設計が脆弱でしたので、最初の1年ぐらいはずっと作り直しをしていました。
オン・ザ・エッヂからライブドアへ、非常勤取締役として関わった時代
田代
オン・ザ・エッヂ→エッジ→ライブドアと社名が変わっていきます。ライブドア時代、取締役のままアメリカに行かれたのでしょうか。
山﨑氏
そうです。もともとは退任して起業するつもりでした。
アメリカでVoIP(Voice over Internet Protocol)、いわゆるSkypeのようなものをやりたいと思っていましたので「ライブドアを退任して渡米します」と伝えました。ただ、当時のライブドアは、財務担当、管理担当、営業担当など担当領域を明確に分けていました。技術担当役員の私がいなくなると困るので、「非常勤取締役でいいから残ってほしい」と言われたので残ることにしました。それが2003年の年末です。2004年1月からは非常勤取締役として、取締役会で技術的なチェックをする役割に専念しました。
その3カ月後ぐらいに、オフィスが渋谷から六本木ヒルズへ移転し、社名はライブドアになりました。その後、近鉄バファローズ買収の件など、いろいろなことが起こっていきます。私が非常勤取締役になった後、会社の方向性がかなり変わった印象です。
田代
ライブドアがメディアで大きく取り上げられ、堀江貴文氏が前面に出ていた頃、山﨑さんはかなり距離があったのですね。
山﨑氏
そうです。実際、アメリカにいましたから物理的にも距離はありましたね。
私が日本にいた頃のライブドアは、BtoBのデータセンターなど派手ではない事業をやっていました。当時の事業領域は、Web制作、データセンター、投資です。ソフトウェア事業も、私が入ってからアメリカへ行くまでの2、3年の間に始めたものがありましたが、それぐらいです。
インターネットプロバイダーのライブドアを買った後、メディア事業がスタートしました。
田代
近鉄バファローズなど様々な買収、大規模な株式分割が話題になっていた頃は、ほとんど関わっていなかったということですか。
山﨑氏
取締役会には出ていましたし、決議にも参加していましたが、私は常にアメリカからリモートで出席していました。
ライブドアショック時はカリフォルニアにいた
田代
2006年1月のライブドアショックの時も、東京ではなくアメリカにいらっしゃったのですか。
山﨑氏
そうです。カリフォルニアにいました。
朝7時か、8時ぐらいだったと思います。友達から電話がかかってきて、「なんか君の会社がすごいニュースになっている」と言われました。それでネットを見たらあの騒ぎでした。
田代
その時は、何が起きているのかわからない状態だったのでしょうか。
山﨑氏
そうですね。社内からの情報もありませんでしたので何もわかりません。「一体何が起きているのだろう」という感じでした。
田代
その後、東京に呼び戻されたのですか。
山﨑氏
そうです。
当時、役員は6人いたと思います。当時の状況から、旧経営陣の一部は逮捕される可能性が高い、という見方がありました。
その場合、次に代表になるのは熊谷史人氏と決まっていました。ただ、熊谷氏も少し危ない可能性があったので、もし熊谷氏が逮捕されたら私が代表になる、という流れまでは決まっていました。

2006年6月に臨時株主総会を開き、いわゆる旧経営陣ではない人たちを選任して新しい経営体制にする。そのためには、代表取締役を置く必要がありましたので。
最終的には、臨時株主総会までの3カ月間に限って代表取締役を引き受けた、ということです。
役員としては2001年末からずっと役員でしたが、代表権があったのはその3カ月だけです。
田代
3カ月間だけ代表取締役を務めることは、もともと決まっていたのですね。
山﨑氏
そうです。
2001年12月に取締役就任し、2003年までは常勤取締役。2004年から2005年は非常勤取締役。そして、2006年には3カ月間だけ代表取締役です。
田代
ライブドア時代、堀江氏と一緒に働いていますが、何か印象に残っていることはありますか。
山﨑氏
私は渋谷の本社とは異なる場所のデータセンターに常駐していたので、東京でも物理的に働いている場所が違いました。ですから、主に本社での会議の時だけ会うという感じでした。すごく記憶力が良くて頭の回転が早いという印象でした。
田代
担当領域もまったく違ったのですね。
山﨑氏
そうです。私はデータセンターのトップでしたので、基本的にはデータセンターの運営に専念していました。
田代
ライブドアには、トータルでどのくらいいらっしゃったのでしょうか。
山﨑氏
2000年から2006年ぐらいまでですので、約6年になりますね。
田代
やはり濃い時代でしたか。
山﨑氏
そこまででもなかったですよ。まあ、普通に忙しいという感じじゃないですか。
2007年や2025年のZETAも同じぐらい大変だったので、仕事の忙しさ、大変さという観点ではさほど変わらないです。
