「自分を鍛えられる場所」を選んだ──絶頂期の住友銀行へ
田代
松下社長は住友銀行からキャリアをスタートされています。大学は東京ですが、最初の配属は大阪だったそうですね。
松下氏
そうですね。東京で就職したつもりだったのですが、配属先は大阪の中之島支店でしたので、結果的には地元へ戻ってきたような形です。
私が就職活動をしていた当時の住友銀行は、都市銀行の中でも勢いがあり、「業界トップを走る銀行」という印象でした。ただ、就職活動を始めた頃と実際に入行する頃では、世間の見方が大きく変わっていました。
就職活動中には表面化していなかった問題が次々と報道され、内定式では役員から「皆さんには申し訳ない」という趣旨の話もありました。入る前と入った後で、銀行を取り巻く空気が変わっていた、そんなタイミングでした。
田代
もともと金融業界を志望されていたのでしょうか。
松下氏
銀行だけを目指していたわけではありません。伊藤忠商事や野村證券、新日本製鐵など、それぞれの業界を代表する企業を受けていました。
ただ、当時から一つだけ決めていたことがあります。
「定年まで一つの会社に勤める」ことではなく、「若いうちに一番自分を鍛えられる環境へ行く」ことです。
どうせ挑戦するなら、その業界で一流といわれる会社で、自分を試してみたい。その想いが一番強かったですね。
住友銀行との出会いは、人とのご縁でした。友人の先輩が住友銀行に勤めていて、「一度話を聞いてみないか」と声を掛けていただいたことがきっかけです。振り返ると、その後の人生も含め、私は本当に人とのご縁に恵まれてきたと思います。
田代
一方で、当時の住友銀行は「猛烈銀行」とも呼ばれるほど厳しい組織だったと聞きます。
実際はいかがでしたか。
松下氏
ご想像の通りですね。入ったばかりの頃は、「何というところに来てしまったんだ」と思いました(笑)。
職場では怒声・罵声が飛び交い、上司が物を投げることもある。お客様の前で部下を叱責することも珍しくありませんでした。あくまで当時の話です(笑)。

最初は驚きましたが、不思議と人は環境に慣れるものです。
仕事を覚え、少しずつ成果が出るようになると、仕事そのものが面白くなっていきました。
田代
成果が出たことで仕事が好きになった、ということですか。
松下氏
まさにそうです。
「やりたい仕事」を探すことも大切ですが、それ以上に「自分が成果を出せる仕事」を見つけることも大切です。
成果が出れば周囲から評価されますし、自分自身も仕事が好きになります。その積み重ねが、さらに成長につながっていく。銀行時代は決して楽な環境ではありませんでしたが、結果として多くのことを学ばせてもらいました。
ただ、その頃から漠然と、「銀行で終わる人生ではない」という想いもありました。
銀行で経験を積みながらも、「次は何に挑戦するのか」という問いだけは、いつも心のどこかにありました。
湾岸戦争が、自分の進むべき道を変えた
田代
銀行で約10年間勤務された後、アメリカの大学院へ進学されています。
大きな決断だったと思いますが、何が背中を押したのでしょうか。
松下氏
一番大きかったのは、湾岸戦争ですね。
当時、連日のように報道を見ながら、「国際社会の中で、自分にもできることがあるのではないか」と考えるようになりました。途上国の開発支援や国際貢献に携わる仕事がしたい。その想いが日に日に強くなっていったのです。
当時は国際連合やNGOで働くことも真剣に考えていました。ただ、国際機関で仕事をするには修士号以上が求められることが多く、世界銀行のような組織では博士号が必要になるケースもあります。
それなら、まずは大学院で学ぼうと決めました。
田代
当時はMBAブームでもありました。
その中で、経営学ではなくMPA(公共政策)を選ばれた理由は何だったのでしょうか。
松下氏
国際機関で仕事をすることを考えたとき、自分に必要なのはMBAなどの企業経営ではなく公共政策や国際開発のMPAだと思いました。
ビジネスで成功する方法ではなく、社会課題をどう解決するのか。その視点を学びたかったのです。
田代
お一人ではなく、ご家族全員で渡米されていますね。
松下氏
当時はすでに家族がいて、子どももいました。一人で留学するという選択肢もありましたが、せっかく海外へ行くなら、家族全員にとって意味のある経験にしたいと思いました。
大学院を選ぶ際も、教育内容だけではなく、家族が安心して暮らせる環境かどうかを重視しました。
最終的に選んだのがカリフォルニアです。気候も穏やかで、国際開発や公共政策の分野でも評価が高く、MPAで著名な教授がいたことも決め手になりました。
田代
不安よりも、「国際社会で仕事がしたい」という想いの方が大きかったのでしょうか。
松下氏
そうですね。
もちろん簡単な決断ではありませんでしたが、その時は国際機関で働くことが、自分の進むべき道だと本気で信じていました。だから、迷いは一切ありませんでした。
田代
大学院修了前に、連工業開発機関(UNIDO)などで経験を積まれます。その経験が再び人生の転機になったそうですね。
松下氏
はい。
正式採用の登竜門と言われていたこともあり、UNIDOでインターンとして実務経験を積んだあと、バングラデシュの孤児院にも行きました。
当時は、国連などの国際機関なのか、NGOなのか、それとも別の形なのか、自分が本当に進むべき道を探している時期でした。
ところが、実際に組織の中で働くうちに、理想と現実の間に少しずつギャップを感じるようになったのです。
田代
どのようなギャップだったのでしょうか。
松下氏
国際機関には世界中から優秀な人材が集まっています。それは間違いありません。
ただ一方で、とても官僚的な組織でもありました。
私がいたウィーンでは、昼間からワインを飲みながら議論しているような光景もありました。もちろん議論は真剣に行われます。
しかし、その議論が現場で何を生み出し、支援を必要としている人たちにどう届いているのか、私には見えませんでした。
「国際貢献」よりも、「日本の社会課題」に向き合いたいと思った
田代
国際機関で働く中で、理想とのギャップを感じ始めたわけですね。
松下氏
そうですね。
国際機関は、単純に「良い政策」や「良い支援」があれば物事が進む世界ではありません。
各国政府との関係や、それぞれの国の利害が複雑に絡み合っています。
私は民間企業出身です。特定の国や組織を代表しているわけではありませんでした。
そうした環境で働くうちに、「本当に自分がやりたいことは、この組織の中で実現できるのだろうか」と考えるようになりました。
国際機関で働くこと自体が目標になってしまえば、本来目指していた社会課題の解決から離れてしまう。
そんな違和感が、少しずつ大きくなっていったのです。
田代
海外へ出たからこそ、日本を見つめ直すことになったのでしょうか。
松下氏
まさにそうです。
日本にいる頃は、自分が日本人であることを意識する機会はほとんどありませんでした。
ところが海外では、「どこの国から来たのか」「どんな価値観を持っているのか」と常に問われます。
その中で、日本人としての自分を改めて見つめ直すようになりましたし、日本という国に対する愛着や責任感も強くなりました。
田代
国際貢献を志して海外へ渡ったからこそ、「日本で取り組むべき課題」が見えてきたわけですね。
松下氏
そうですね。
もちろん、アフリカの飢餓や途上国の貧困は、世界が向き合うべき大きな課題です。
ただ、自分自身が取り組むべきテーマとして考えたとき、「本当に自分だからこそできることは何だろう」と自問するようになりました。
その答えが、日本でした。

日本にも、医療や福祉、働き方、人口減少など、解決しなければならない社会課題が数多くあります。
それなら、日本人である自分は、日本の社会課題に向き合う方が自然ではないか。そう考え、帰国を決意しました。
田代
そして、帰国後はシティバンクへ入行されます。
松下氏
はい。これには理由があります。
留学は自費でしたので、貯金はほとんど使い切っていました。
帰国後は、NGOやソーシャルベンチャーのような組織を自ら立ち上げたいという思いがありましたが、そのためには資金が必要です。
当時のシティバンクは勢いがあり、外資系金融機関は報酬水準も高かった。「5年間働いて起業資金をつくろう。」そんな計画を立てて入社しました。
田代
実際には、その計画どおりには進まなかったようですね。
松下氏
そうなんです。
富裕層向けビジネスに携わっていましたが、2004年、部門そのものが閉鎖されることになりました。
予定は大きく狂いましたが、不思議と後悔はありませんでした。
その経験で得た知識や人脈は、その後のキャリアにつながっています。
振り返ると、自分の人生は「計画どおり」よりも、「出会いによって次の道が開ける」ことの方が多かったように思います。
