社長になるとは、まったく考えていなかった

田代

2021年に代表取締役社長へ就任されていますね。入社は1984年ですから、ダイトロンで40年以上のキャリアを積まれていることになります。
入社した頃から、いずれ社長になるというイメージは持っていたのでしょうか。

土屋氏

いや、まったくありませんでした。本当に何も考えていなかったですね。
もちろん、「自分はやっていける」という自信が、まったくなかったわけではありません。ただ、「この会社でいつまで働いていけるのだろう」という、自分自身に対する疑問は持っていました。

田代

会社に対する不満というより、「自分は社会人としてやっていけるのだろうか」という感覚だったのですね。

土屋氏

そうですね。会社がどうこうということではなく、自分自身の問題です。
そもそも学生時代は、就職活動をほとんどしていませんでした。卒業が近づいてきて、「これはまずいな」となって、ようやく本格的に始めたんです。
かなり遅い時期だったと思いますが、そんな私をダイトロンが採用してくれました。なぜ採ってくれたのかは、今でも分かりませんけど(笑)。

田代

結果的には、その会社で40年以上働き、社長まで務めることになった。入社当時には想像もしなかったでしょうね。

土屋氏

まったく想像していませんでした。
ただ、会社には基本的に感謝しています。就職活動も遅かった自分を採用してくれたという思いがありますから。

田代

その感謝が、長く働き続ける理由の一つにもなったのでしょうか。

土屋氏

それはあると思います。
40年以上も働いていれば、良いことばかりではありません。それでも、採用してもらったという思いはずっとありましたし、「簡単に辞めてはいけないな」という気持ちも、どこかにあったのだと思います。

未調査の洞窟を回った探検部

田代

大学時代のお話も非常に興味深いです。立命館大学では「探検部」に所属されていたそうですね。
私はこれまで様々な方にお会いしましたが、探検部出身の方は初めてかもしれません。

土屋氏

私自身、もともと自然が好きだったんです。高校時代に、知人から「探検部という変わったクラブがある」と聞いて、大学に入った後に調べてみたら面白そうだったので入りました。


洞窟探検や川下り、山登りなど、いろいろやっていましたね。

田代

洞窟探検というのは、観光地になっているような洞窟へ行くわけではないですよね。

土屋氏

はい、人が訪れたことがない洞窟がほとんどです。
例えば、岡山から山口にかけてのカルスト台地や、岩手県の岩泉、それから滋賀県など、あまり一般には知られていない洞窟へ入っていました。
しかも、ただ中に入って終わりではありません。自分たちで洞窟の中を測量するんです。
まだ十分に調査されていない洞窟であれば、測量して記録を残し、その結果を発表することもありました。

田代

やっていることだけ聞くと、ものすごく体育会系ですね。

土屋氏

でも、分類上は「学術系」なんですよ(笑)。
洞窟を測量して記録したり、別のメンバーは海外へ行って民族調査をしたりしていました。体力は使いますが、目的は調査や研究に近いんです。

田代

単なる冒険ではなく、「まだ分かっていないものを自分たちで調べる」という活動だったわけですね。

土屋氏

そうですね、今振り返っても、普通の大学生活ではなかなかできない経験だったと思います。
知らない場所へ行って、自分たちで調べ、考えながら動く。そういうことを学生時代から自然にやっていたのかもしれませんね。

カルチャーショックのインド放浪

田代

海外に探検は行かれたのですか。

土屋氏

探検部とは別にインドへ1カ月ほど行きました。よくある大学生の放浪の旅ですね。

田代

今から40年以上前のインドですから、日本との生活環境の違いもかなり大きかったのではないでしょうか。

土屋氏

今とはまったく状況が違ったと思います。
現在のインドを詳しく知っているわけではないので単純には比較できませんが、当時はかなりカルチャーショックを受けました。

田代

旅行会社のツアーではなく、ご自身で回られたのですか。

土屋氏

そうなんです、ほとんど何も予約せずに行きました。
宿もその場で探して、次にどこへ行くのかも自分で決める。本当に放浪に近い旅でしたね。
今のようにインターネットやスマートフォンで何でも調べられる時代ではありませんから、その場その場で考えながら動いていました。

田代

探検部で洞窟に入ることもそうですが、かなり行動力のある学生だったように感じます。

土屋氏

どうでしょうね(笑)。

ただ、知らないところへ行くことに、それほど抵抗はなかったのかもしれません。
インドでは日本とはまったく違う生活や光景を目にすることも多く、非常に刺激的でした。

田代

その経験が、その後の海外勤務にもつながったと思いますか。

土屋氏

「あの経験があったから今がある」というふうに結び付けて考えたことはないので、はっきりとは分かりません。
ただ、知らない場所へ行けば、その場で自分の頭で考えて、決めて、行動するしかありません。当時は、AIはおろかインターネットもありませんので。

若いうちにそういう経験をしたことは、その後、海外で仕事をする上でも生きていたのかもしれませんね。

マレーシアで見た「国が成長する瞬間」

田代

社会人になってからも海外との関わりが長いですよね。特にマレーシアには10年間赴任されていますね。

土屋氏

赴任したのは1994年頃だったと思います。そこから10年間ですね。
当時のマレーシアは、まさにこれから国が大きく成長していく時期でした。
「ルックイースト政策」を掲げ、日本など進歩的な東アジアから学びながら国を豊かにしていこうとしていました。
外資も積極的に呼び込んでいて、街の中に次々と新しい建物ができていく。ペトロナスツインタワーも、私が住んでいた頃にできました。ものすごく活気がありましたね。
国そのものが急速に発展していく過程を、目の前で見ることができました。

田代

日本で仕事をしているだけでは、なかなか経験できないことですよね。

土屋氏

はい、経済が成長していく勢いを身近に感じることができました。
仕事の面でも、生活の面でも、日本とは違う環境の中でいろいろな経験をしました。

田代

マレーシアでの10年間は、仕事の面でもかなり苦労されたのではないでしょうか。特に印象に残っている出来事はありますか。

土屋氏

いろいろありましたね。
日本製の設備をマレーシアの現地企業へ納入した後、その設備に不具合が発生したことがありました。
お客様としては当然すぐに直して欲しいけど、海外では必要な人員も設備もない。
かなりのプレッシャーを感じましたね。

1990年代ですから、今のように日本本社とオンラインで簡単につなげるわけにもいきません。
設立当初、日本人は私一人で、あとは現地のメンバーです。日本から技術者が来るまで待っているわけにもいきません。
その時は休日にゴルフをしていたのですが、終わった後、そのまま飛行機に乗ってお客様のところへ向かいました。

田代

土屋社長は営業職ですから、本来であれば設備のメンテナンス担当ではありませんよね。

土屋氏

そうですが、そんなことは言っていられませんでした。
私自身もメンテナンス要員の一人として不具合対応をしました。
その場にいる人間で何とかしなくてはいけない。営業だから技術的なことは分からないと言って、お客様を待たせるわけにはいきませんから。

田代

先ほどのインドの話にも通じますね。誰かが助けに来るのを待つのではなく、その場にいる自分たちで動く。

土屋氏

海外では、そういう場面がよくありました。
何か問題が起きれば、営業も技術も関係なく、まず目の前のお客様の問題を解決しなければいけない。
相当なプレッシャーはありましたが、その経験はその後の仕事にも生きていると思います。

自然と身に着いた『グローバル』感覚

田代

海外でお仕事をされる中で、思うように物事が進まず、不安や憤りなどのマイナスな感情を抱えることはなかったのですか。

土屋氏

私は、もともとそれほど感情的になるタイプではないと思います。
それに海外で仕事をしていると、「感情をコントロールすることは非常に重要だ」と実感します。

田代

日本で仕事をする以上に、ということでしょうか。

土屋氏

そうですね、言葉も文化も価値観も違う人たちと一緒に仕事をするわけです。
日本人同士であれば、ある程度は「言わなくても分かる」という部分があるかもしれません。しかし、海外では自分にとって当たり前のことが、相手にとっても当たり前とは限りません。

そこで感情的になってしまうと、ほとんどの場合、良い方向には進まないんです。
過去にいろいろな人を見てきましたが、感情をコントロールできない人は、海外ではうまくいかなくなることが多いと思います。
自分の考えを一方的に押し付けても相手は動いてくれませんし、怒ったからといって問題が解決するわけでもありません。

田代

改めて振り返ると、マレーシア10年、アメリカ5年という15年間の海外生活は、土屋社長の人格形成にもかなり大きな影響を与えたのでしょうか。

土屋氏

それは大きかったと思います。
特にマレーシアもアメリカも多民族国家です。いろいろな人がいて、考え方も違う。
そういう環境に長くいることで、「自分たちの考え方だけが当たり前ではない」ということを自然と理解するようになりました。

15年間の海外生活を通じて、多様性の価値を理解するようになりましたし、人を見る時の視野も広がったと思います。
まず相手の考え方を理解する。その上で、どうすれば一緒に仕事を進められるのかを考える。
そうした姿勢は、海外で自然と身についていったのだと思います。

学生や社会人人生の早い段階で海外を知ったことは大きな財産となりました。
想像を絶する壁にぶち当たりましたが、社長の立場になって自然と『グローバル』を意識することができましたので。


田代

そう考えると、「グローバル」は単なるダイトロンの成長戦略ではなく、土屋社長ご自身のキャリアから生まれた考え方でもありますね。

土屋氏

そうかもしれませんね。
今後、ダイトロンが海外事業をさらに伸ばしていく上でも、自分が経験してきたことを生かしていきたいと思っています。

50代になり、初めて「社長」を意識した

田代

入社した頃は、まったく社長になることを考えていなかった。
では、いつ頃から「ひょっとすると自分が」という意識が出てきたのでしょうか。

土屋氏

取締役になってからでしょうね。
次の中期経営計画を策定する際に、全体の取りまとめを任されたことがありました。その頃から、少しずつ意識するようになったと思います。

田代

会社全体の将来を考える仕事を任され、経営者という立場が現実的になってきたということですね。

土屋氏

周囲の方からも、そのような可能性について話をされることがありました。
ただ、それでも「絶対に自分が次だ」と思っていたわけではありません。その頃は海外事業の成長や安定、中期経営計画など、目の前の仕事で余裕もありませんでした。

田代

実際に社長になってみて、それまでとは違う難しさを感じることはありますか。

土屋氏

日常的に「厳しい」と感じることは、それほどありません。
ただ、株主総会で株主の方から鋭い質問を受けた時でしょうか。
単に答えにくい質問ではなく、「これは気付きがあるな」と思わされるような質問です。

田代

会社の中にいると当たり前になっていることを外から違う角度で指摘される、ということですか。

土屋氏

はい、そういった感覚です。
株主の方は、会社の中にいる人間とは違った視点で見ています。
短期投資家、長期投資家で考え方は違いますし、成長率よりも配当など株主優待を優先される投資家もいらっしゃいますから。
「なるほど、そういう見方もあるのか」と気付かされることがあります。

田代

逆に、社長として一番うれしい瞬間は何でしょう。

土屋氏

仕入先やお客様から、社員のことや会社の提案、仕事そのものについて褒めていただいた時ですね。
自分自身を褒められるよりも、社員の仕事を評価していただいた時の方がうれしいかもしれません。