「やりたい仕事」がなかった就活時代

田代
まずはキャリアの原点から伺いたいと思います。鈴木さんは早稲田大学の社会科学部を卒業されて、その後システムエンジニアの道に進まれましたね。今でこそ自然な流れにも見えますが、当時からIT志望だったのでしょうか。

鈴木氏
いえ、まったくそんなことはなかったですね。
大学を卒業したのが1991年ですが、ちょうどバブルが弾けたと言われる年です。ただ、就職活動をしていた時の空気感は、まだ世の中全体が浮かれていた時代でした。今のように、最初から強い志望動機を持って就活するという雰囲気でもなかったんです。

田代
就職活動そのものに、そこまで切迫感がなかったと。

鈴木氏
そうですね。周りを見ても、「就職するか、もう少し遊ぶか」くらいの雰囲気でした。
僕自身も、何か明確にやりたい仕事があったわけではなかった。だから、リクルートから送られてきた分厚い業界本を見ながら、感覚的に「これは違う」「これも違う」と消していったんです。

田代
かなり徹底した消去法だったんですね。

鈴木氏
ええ。例えば、海外には行きたくないなとか、自分は営業には向いてなさそうだなとか、そういう感じで消していったら、最後に一つだけ残ったのが、“情報処理業”という業種だったんです。
なぜ残ったかというと、何をする業界なのか全く分からなかったからです。

田代
「わからなかったから逆に消せなかった」ということですよね。

鈴木氏
そうなんです。
当時はまだ、1人1台パソコンを使う時代でもありませんでした。私自身、パソコンどころかワープロすら触ったことがない。「情報を処理するとは、何をするのだろう」というレベルでした。
つまり、判断材料がなかったからこそ、消せずに残ったんですよね。

1,000社近くを3社まで絞り込んだ“独自基準”

田代
そこから実際に会社を選ぶ時は、どうやって絞っていったんですか。

鈴木氏
業界も知らないし、ほとんどの会社も知らない。それで完全に自分なりの条件で絞っていきました。
東京勤務がいい。でも三重県出身なので、名古屋にも拠点があるといい。海外は興味がなかったので、海外事業のある大企業は除外。週休2日で、休日数が多くて、フレックスがあるところがいい。そんなことしか絞る条件を思いつけなかった。そうやって削っていったら、1,000社あった選択肢が、最終的に3社まで減ったんです。

田代
その3社の中に、CAICA DIGITALの前身が入っていた。

鈴木氏
そうです。
残りの1社は外資系コンサルティング企業でしたが、面接担当者と意見が合わなくて面接の途中で辞退しました。もう1社は、宇宙系のシステムを扱う会社で面白そうだったんですが、応募時には採用を締め切っていた。
結局、残ったのがCAICA DIGITALの前身であるジャパンシステムクリエーションだったんです。

田代
でも当時の鈴木さんなら、大企業に行けたような気もしますが、いかがですか。

鈴木氏
売り手市場の時代や出身大学を考慮すると、あったでしょうね。実際、採用担当の方からも「本当にうちに来るんですか?」と何度も念押しがありましたから。
向こうからすると「どうして、わざわざうちを選ぶのか」という感覚だったんでしょう。
でも、私は就職活動を早く終わらせたかったんです(笑)。

エンジニアとして過ごした、忙しくも不思議と景気に左右されなかった時代

田代
実際に入社されてからはいかがでしたか。福利厚生などは、求人票の通りだったんでしょうか。

鈴木氏
制度面は概ねその通りでしたが、残業時間はかなり多かったですね。当時は今とは環境が違って、月80時間から100時間というのも珍しくなかったです。

田代
まさに当時のシステムエンジニア像ですね。

鈴木氏
そうですね。
ただ、当時はそれが特別だとも思っていなかったんです。他の同業もみんなそのような状況でしたから(笑)。
忙しかったですけど、残業代はちゃんと出ていたので、生活はだんだん良くなっていきました。コインランドリー通いが、いつのまにか自宅に洗濯機がある、みたいな変化ですね。

田代
時代の空気も含めて、今とはだいぶ違いますね。

鈴木氏
かなり違うと思います。
面白いのは、世の中ではバブル崩壊だ、不況だと言われていても、私の周りではそこまで急激な変化を感じなかったことなんです。銀行システムなどの大規模案件を扱っていたので、一つのプロジェクトが5年単位で続く。つまり景気が悪くなっても、すでに走っている仕事はそのまま残る。
「不景気」「バブル崩壊」といった報道を見ても、どこか他人事のように感じていました。